倉敷の町の繁栄は、干潟を干拓した土地に築かれた。1580年代以降、防潮堤の建設が進められ、町と田畑が拡大されてきた。堤防の外には瀬戸内海が広がり、海運の便が良いうえ、潮の満ち引きを利用して船が容易に倉敷川を上がってこられたことが倉敷の発展の基であった。川は運河のように浚渫(しゅんせつ)され、護岸が補強され、多くの船が行き交い、交易の町としてにぎわうようになった。
干拓地の土壌には塩分が残り、農産物には適さない。ここでは塩分に強いワタを植えることが奨励され、一帯は綿の大産地となった。その綿を農家から買い上げ、商品として出荷する問屋が増え、そして米や海産物などの物資輸送の集積地として商家も増え、やがて交易の拠点として商業が盛んな町が形成されていった。
倉敷は城下町ではない。徳川幕府の直轄領として幕府から派遣された代官が治めていたが、商人たちの自治を認め優遇したことで、商人が中心となって地域の行政を担う自治都市として発展していった。
明治22年に倉敷紡績工場が設立され、原料の綿花を加工して糸を生産した。この工場のみで、明治期の岡山県内全産業の8.9%の生産額を誇り、岡山県の産業の牽引車として大きな役割を担った。倉敷は、商いの町の顔と併せて、生産の町の顔も持つようになった。