世界文化遺産 「三内丸山遺跡」(青森県)

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 2021年7月に『北海道・北東北の縄文遺跡群』が世界文化遺産に登録された。その時から取材したいと思っていたが、今回世界遺産構成資産(17カ所)の中でも特に大規模な集落跡であり、日本最大の縄文遺跡である『三内丸山遺跡』を取材する機会を得た。取材当日は1992年に始まった三内丸山遺跡の大規模発掘調査に当初から関わると共に、現在三内丸山遺跡センター所長である岡田康博氏のお話を伺うことができた。岡田所長は私が取材前に読んだ書籍の著者でもあった。また、悪天候予報の中奇跡的に晴れた早朝、ドローン撮影を行い素晴らしい動画が撮れる幸運にも恵まれたので、記事と共に、上空から見るとおとぎの国のようにも見える縄文遺跡の映像を、読者には楽しんでいただきたい。

集落全体像動画 https://youtu.be/7KdmM0L2lRA

縄文時代とは
 縄文時代の年代については、縄文文化の定義によって違ってくるので明確な答えは難しいという。土器と弓矢が縄文時代の2大発明といわれ、現在教科書では紀元前1万3千年ごろ、つまり今から1万5千年前に始まったと書かれている。また、教科書ではいつが終わりか書かれていないが、一般には2400年前(紀元前400年)ごろといわれている。
 およそ1万5千年前に始まった急激な温暖化により、栄養価が高く食用に適したクリ・クルミ・ミズナラなどの落葉広葉樹林が形成され、海水面も上昇して魚介類が豊かな湾や入江が出来上がった。採集・狩猟民にとって有利な環境になるとともに、土器の発明により煮炊きができるようになり食糧の対象も拡大した。こうして海や川が近く、動植物が豊富な落葉広葉樹林がある場所に、縄文人は居住するようになったのである。
 落葉広葉樹林は当時の気候の関係で日本の中部から北東に多く広がり、遡上(そじょう)するサケ・マスおよび、海流の関係でその他の魚介類も豊かな地域と重なっていたので、縄文人にとって有利な環境があった。そのため人口の80%が東日本に集中したといわれている。

縄文時代における三内丸山遺跡の位置づけ
 三内丸山の集落は紀元前3900年から2200年ごろまで続き、縄文時代を6つに分ける区分では前期の中頃から中期の終わりに当たるという。初めのころは温暖化で平均気温が現在よりも2~3度高く、海面は現在より最大5メートルも上昇して海や川が近く、河岸段丘にある集落の周辺には落葉広葉樹林が広がっていた。人々は採集・漁労・狩猟で生活したが、特にクリ・クルミなど栄養価の高い植物は、栽培して食料としていたという。その後集落が縮小・分散化したのは、寒冷化が始まり自然環境が変化して、食糧が減少したことへの対応策であった。

建築物と日常生活について
 岡田所長に遺跡とミュージアムをご案内いただいた。
 最大の縄文遺跡である三内丸山遺跡は、広さが36ヘクタールと広大で、そこに住居用竪穴建物跡が600棟以上確認されている。底辺の直径が4メートルほどのものが多く家族単位で生活していたと考えられている。繰り返し建て替えられているので、一度に600棟が建っていたわけではなく、最大500名ぐらいが同時に生活していた可能性があるという。

住居用竪穴建物群(復元)動画 https://youtu.be/vaw-qEQbJZM

 竪穴建物の中でも長さ10メートル以上の大型建造物は、13棟見つかっており、場所が集落の中心に近いことから、集会所や共同作業所として利用されていた可能性がある。中でも特に大型の竪穴建物は長さ32メートル、幅10メートルのものが発見されており、復元されてその姿を見ることができる。この建物は内部が90坪(約300平方メートル)あり300人は十分集まることができる。集落の最盛期には、そのぐらいの集会場が必要だったと考えられている。

大型竪穴建物(復元)動画 https://youtu.be/4jIsGMoTPLQ

 もう1つの大型建物として、4.2メートル間隔で6本の柱を立てた大型掘立柱建物跡が発掘されている。柱を立てた柱穴の直径は2メートル、深さ2メートルと巨大で、地下水により空気に触れなかったことと、縄文人が腐食を防ぐ知恵として柱の周囲と底を焼き焦がしていたため、直径1メートルのクリの木柱の根元が腐ることなく残されていた。発掘された柱穴は保存のためドームで覆っているが見学者は自由に見ることができる。穴をのぞき込むと今でも湧水が溜まっており、定期的に排水が必要だという。建物はすぐ隣に復元され遺跡のシンボ ルとして見学者を迎えている。

大型掘立柱建物動画 https://youtu.be/kspCh2gXC3g

 その他、6本の掘立て柱に支えられる高床式の建物も、集落の中心近く成人墓の列が切れるあたりに密集して発見されている。ムラ(=村)の東側から中心に向かう道の両脇に420メートルにわたって墓が並び、その先にこの建物があるので、葬儀・埋葬に関わる施設の可能性があると思っている、と岡田所長はおっしゃったが、まだ解明されてはいないそうだ。

掘立柱(高床式)建物動画 https://youtu.be/XaTZ3HZ-2M4

食について
 狩猟の対象動物としては、イノシシやシカなどよりも、この地域では野ウサギやムササビなど小動物を獲っていたと考えられる。
 また、海や川が近いため、遺跡からは50種類以上の魚類の骨が発見されている。現代人と同じようにアジ・サバ・イワシ・タイなどを食べ、津軽海峡のマグロも食べていたことが出土する骨によってわかっているという。道具としては、釣針・銛(モリ)・網を使っていた。

 これら魚や動物の骨は、遺跡北側で沖館川(おきだてがわ)に近い「北の谷」と呼ばれる低湿地で発見された。ここは縄文時代前期中ごろのゴミ捨て場であり、湿地に埋もれていたことで空気に触れることなく有機物の保存状態が良好なので、縄文人の食や生活に関する貴重な遺物が発掘されている。
 しかしながら、あくまで動物性タンパク質の摂取は多くはなく、およそ80%が採集による植物性の食物だった。

 特筆すべきこととしては、栄養源として非常に大切なクリやクルミはムラの周囲に植えて、クリについては管理していたことがDNA分析などから証明されている。食べ物の話ではないが、漆塗りの木器や土器が出土している。漆は自然の状態では大量に樹液を採取できないことから、漆も管理されていたと考えられている。つまり、三内丸山の縄文集落では農耕は始まっていなかったものの、自然をコントロールする半栽培は行われていたということ だ。

敷地内のクリの木動画 https://youtu.be/o64ODwiWyXo

石器・土器について
 石器に関して、この地域では薄く層状に割れ易い頁岩(ケツガン)という石の良質なものが多く取れるため、石器の材料には事欠かなかった。
 三内丸山遺跡から発掘される土器は、円筒土器と呼ばれるもので、当初は煮炊きをするためだけに使われていたが、時代を追うに従ってその用途と種類は多様化していった。

 祭礼に関わるといわれる土偶・石偶は種類が豊富で、大きさも大中小存在しておりどれ1つ同じものがない。他の遺跡と比較して格段に出土数が多く2千点を超えている。土偶が何に使われたのかは今でも解明されていないが、そのほとんどが女性をかたどっていることから、自然の恵みや安産などを願って祭礼に使われた、という説を否定する根拠もないそうだ。

縄文土器収蔵庫動画 https://youtu.be/f3wI4M_MKyw

交流・交易について
 事前に読んだいくつかの書籍の中で、縄文人も大陸とのなんらかの関係を持っていたと感じる記述があったので、岡田所長に伺ったところ「明確な証拠はありません」との回答だった。竪穴建物に住み、土器を使っていたなど、類似点は多いが決定的な違いとして、そのころ大陸では既にヒエ・アワ・キビなど雑穀の農耕が始まっていたのである。

長野県産黒曜石 石鏃(せきぞく:石のヤジリ) (三内丸山遺跡センター蔵)

 国内遠隔地との関係に関しては、例えば黒曜石は長野県のものであり、ヒスイは新潟県糸魚川からの交易品であることがハッキリしている。日本海を通る交易航路があったことは間違いないと考えられている。
 また、周辺地域との関係では、北は北海道の札幌、千歳付近まで、南は盛岡、秋田ぐらいまでは、共通の文化圏を示す出土品が多く、交流が深かったといわれている。

糸魚川産ヒスイ

死生観と祭祀について
 遺跡には「捨て場」と呼ばれるゴミ捨て場がある。三内丸山遺跡でいえば北の谷にあり、川に近い水分を多く含んだ谷なので、当時の動物や魚の骨、植物、壊れた土器などが出土する。時代が下ると捨て場とは別に「盛土(もりど)」が現れる。盛土からは集落造成時に排出された土砂や、日常生活の廃棄物が出てくるのだが、中には壊れたものに混じって無傷で使用可能なものや、明らかにわざと破壊した土器や土偶が多数発掘されている。火をたいた跡なども発見され、また定期的に土を混ぜて整地し層をなして盛られた丘状になっており、何らかの宗教的・祭祀(さいし)的な意味合いが感じられるという。

南盛土からはぎ取った盛土の断面
地層をはぎ取った後の南盛土は建物で覆い保存、公開している

 大人の墓は集落内の道沿いに整然と並んでおり、住居跡のある場所とは明らかに別の世界として区別しているといわれる。もっとも私の感覚では、ムラの外の世界からムラ中心に向かう道路の両側に並ぶ墓の列は、墓地と言うよりは何かの記念碑のように見えた。

 また、一方で乳幼児の内に死んだ子供は、その多くが煮炊きに使った土器を再利用した棺に収められて、比較的住居に近い集団墓地に埋葬されている。土器に穴をあける・丸い石を入れるなどのほぼ共通の作法で弔われていることから、子供の死に対しては「再生への希望」など、別の感情があった可能性があるという。

 環状配石墓は縄文時代中期の後半に造られるようになり、長老等より特別な人を葬ったものではないかといわれるが、確かな証拠はまだないという。後続する縄文時代後期の大型環状列石の一部には、環状配石墓と石の並べ方が共通するものがある。縄文時代後期は、寒冷化による集落の小規模化・分散化が進んだ時期であり、大型環状列石はムラ単位ではなく、地域の祭礼の場所であったとの説もある。

縄文人に驚かされること
 岡田所長に縄文人について驚かされることを伺ってみた。
 まず初めに上げたのが「戦争がなかった!」ことだった。戦闘に使う武器は発見されず、集落の周りに堀もなく、集団で戦って多数が死んだ様子も一切ない。多分争う必要がなかったのではないか。縄文人は、自然の一員としての人の在り方を日常生活の中に持っていた、と思っていると語られた。そして思い出したように「遺跡を発掘していると、ゴミ、廃棄物が少ないことに驚きます」と言われた。
 大型掘立柱建物を建てる際など多くの労働力が必要だったはずで、多数の人間とそれを動かす人がいたはずだ。また、墓に入る人とそうでない人がいたことは間違いないので、社会階層もなかった訳ではなかった。それでも争いがあったという痕跡はないという。

人類の遺産としての価値
 世界遺産に登録された理由をどう思っているか伺った。
 「北東アジアにおいて農耕以前の人類の生活・精神文化を、1つの流れとして説明することができる遺跡が、この地域に点在していたことが普遍的価値として認められたのだろう」とのことだった。

編集後記
 縄文人はただのその日暮らしの狩猟・採集民ではなかった。採集・漁労・狩猟に関する年間のスケジュールを管理して長期間定住していた。漁労・狩猟の道具を巧みに操り、採集においては貴重な栄養源となる植物は栽培まで行った。また、その行動範囲も想像を遥かに超えて遠隔地の貴重な資源を調達し、三内丸山などのような大きな拠点集落では、それを精巧に加工して他の集落へも拡散させていた。
 岡田所長もおっしゃるように、我々はもはや縄文時代に戻ることはできない。しかし、せめて彼らの比較的穏やかで自然と調和した生き方を見て、現代人が行う自然環境破壊と終わりのない争いをわずかでも反省したいと感じた。

遺跡北端部から出土した「縄文のポシェット」 (編かごと中に入っていたクルミ)

≪取材協力≫
三内丸山遺産センター
住所:〒038-0031 青森県青森市三内字丸山305
TEL:017-781-6078、FAX:017-781-6103
URL:https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
三内丸山遺跡・縄文時遊館 観覧料:
一般/410円、高校生・大学生等/200円、中学生以下/無料
アクセス:新青森駅からバスで約15分、タクシーで約10分

≪参考書籍≫
縄文文化と日本人 (佐々木高明著)
●縄文土偶ガイドブック (三上徹也著)
●遥かなる縄文の声 三内丸山を掘る (岡田康博著)
●世界遺産になった! 縄文遺跡 (岡田康博編著)
●三内丸山遺跡ガイドブック(ダイジェスト版)

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