「能」は世界最古のミュージカル 第一章 シンプルなステージから生まれる豊かなイメージ

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能の歴史

 「能」の誕生は、イギリスの劇作家シェイクスピアの時代よりも3世紀早い14世紀半ばにさかのぼります。8世紀に中国大陸から伝来していた滑稽な物真似(ものまね)や軽業(かるわざ)を元にして、芸術的な演劇スタイルに大成したのは世阿弥(ぜあみ)でした。彼は人気役者・観阿弥(かんあみ)の長男として1363年に誕生。12歳の時に父親と共演した舞台で、最高権力者の将軍・足利義満に才能を認められ、その偉大な援助を受けることで「能」を確立する一歩を踏み出しました。ヨーロッパではルネサンス運動が起きていたころです。彼は作家であり演出家・主演者として、50曲(演目のこと)近い作品を残し、600年後の今も忠実に演じられています。それは、日本人の根源にある精神性を伝え続けているとも言えます

ユネスコ無形文化遺産

 「能」は、笛と3種類の打楽器による小編成のオーケストラ(囃子方)(はやしかた)と、物語の情景や状況を説明するコーラス群(地謡)(じうたい)が舞台を囲んで位置し、仮面と美しい装束をまとった役者が、“歌うようなせりふ回し”と“優美な舞”によって物語を展開する歌舞劇(オペラやミュージカルの部類)です。総合舞台芸術としては世界最古であると認められ、同じ舞台で演じられる「滑稽な対話劇の狂言」と共に「能楽」として、2008年にユネスコ無形文化遺産に登録されました

舞台構造

 それでは、能ならではの特異な点をチェックしていきましょう。まず、舞台の構造です。
 観客席との間に幕はなく、極度に簡略化された空間です。向かって左側にある楽屋から舞台へ通じる「橋掛かり」と呼ばれる渡り廊下の脇に3本の小さな松が立ち、劇場内なのに舞台に屋根がついているのは、本来は屋外の独立した建物であった名残りです。
 舞台には、正面に大きな松の木が描かれている以外は、装飾も装置もありません。
 役者が主に演技する空間(本舞台)は4本の柱に囲まれた約6メートル四方の広さです

 では、なぜ、松だけが描かれているのでしょうか。
 松は1年を通じて枯れることのない常緑樹で、樹齢も長いため、日本では古くから「神が宿る木」だとされており、今でも正月には家の玄関に松の枝を飾る風習があります。能舞台の正面に描かれている松は樹齢の高い「老松(おいまつ)」です。そこには神が宿っており、舞を通じて「神と人が交わる場」であることを表現しているのです。しかし、観客席に向かって演じるためには松の木に宿る神にお尻を向けることになってしまいます。それは大変失礼なことから、実際の松は観客席の背後に存在しており、舞台に描かれた松は「鏡に写ったものである」とイメージして、正面の壁全体を「鏡板(かがみいた)」と名付けています。随分と都合の良い解釈ですが、「現実世界と幻想の世界が入り混じる演劇」の舞台としては、すでに実と虚が入り混じった不思議な空間を表現しているとも言えます。そして、ここで演じられる能は、この世(現実世界)とあの世(亡霊の世界)の人物が「時」を超えて出会い、それぞれの「思い」を語り合い、ぶつかりあって、やがて亡霊は立ち去るという筋立てが大半です。
 ところが、背景は変わらず、舞台に持ち込まれる小道具もわずかなうえに、主人公の顔は面で覆われているために表情が変わることはありません。仕草も音楽に合わせたゆるやかな動きでしかありません。いわば「象徴劇」(Symbolic play)と言えるものであり、観客は自らの脳内に背景を描き、演じられる人物の心理状況を想像しなければなりません

 舞台芸術の総合センター「日本芸術文化振興会」による解説映像があります。
 「能」はミュージカルであるのに対して、「狂言」は対話と滑稽な仕草によるコメディーですが、同じ舞台で演じられることも理解していただけます。
 https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/introduction/
 *右上にLanguageの小窓があり、8カ国語を選ぶことができます。

時空を超えるのは、観客の想像力

 能の舞台は何もない空間でしかありませんが、物語の展開に従って、観る側の私たちにはそこが山奥の一軒家になり、都の宮殿になり、時には海の底にまで“思えて”くるのです。そして、いとも簡単にタイムトラベルしてしまうのが能の面白さです。
 時空の変化の大きい演目『海人(あま)』で確認してみましょう

 シテは主人公のこと。ワキはその相手(脇役)でこの演目ではツレ(従者)を従えています。
 子方(こかた)は少年が演じます。舞台後方は4人の演奏グループ。右側の柱後方は地謡(コーラス隊)の8人が横2列に並んでいます。
 *床下を中心に構造自体が音響設計されているため、マイクやスピーカーは不要です。また、舞台照明は一定で、昼と夜の変化や主役へのスポットライトはありません

『海人』のあらすじ
子方が演じる都の大臣が、亡き母を追善しようと遠く離れた漁村を訪ねます。すると、1人の女の海人(海草や魚をとる仕事)が現れて、昔のことを語り始めます。それは、大臣の父が大切にしている宝珠を龍宮に奪われ、それを取り戻そうとこの海辺に来たこと。その折に、美しい海人との間に子を宿し、「宝珠を龍王から取り戻して来たら、その子を私の世継ぎにする」と約束します。そこで彼女は、海底の龍宮へと潜ってゆき宝珠を探し出します。龍たちが気付いて追いかけてきますが、彼女は乳房の下を切り裂いて珠を収め、流れる血で姿を隠しながら奪い返してきます。そして息絶えるのですが、その様子を“舞”で表現し、最後に「私こそ、その亡霊であり、あなたの母です」と告げて、波間に消えます。大臣は漁民に当時のことを詳しく聞き、亡き母の追善供養を営んでいると、龍女の姿で母の霊が現れ、法華経の功徳で成仏できたと喜びの舞を披露します。

 能には、こうした「いま、生きている人」と「あの世の霊」が交流する、つまり現実と夢が交差する物語が多く、この形式を「夢幻能」といいます

 母であることを明かした後に再び現れたシテの姿で、今は「龍女」になっていることを表しています。美しい“女性”の姿ですが、男性が演じています。面はもともと小さく作られているために、演者であるシテの眼の位置は、面の眼の位置より下になります。この「視野が極端に制限されている」ことが能の演技の特徴です

視野を制限されることで役に没頭する

 舞台の全景写真を見て、「前方の2本の柱は邪魔だから外してしまえばよいのに」と思う人が多いでしょうが、この柱はシテにとっては大事な目印であり「能の心髄」ともいえます。
 視野を狭められたシテは、柱があることで舞台の境界を、わずかに確かめることができるのです。ではなぜ、前が見えないほど不自由な面を用いるのでしょうか

 自らの視野を制限されることで、演じる「役」に没頭し精神的に同一化できるからです。
 さらに、能独特のこだわりがあります。仮面劇はギリシャ劇をはじめ古くから世界各地にありますが、それらは演者の顔をすっぽり覆ってしまいます。しかし、能の面は小さく作られ、演者は(写真のように)顎を数センチ出すように掛けます。女の面(顔)から男の顎が出ているという不自然さは、逆に「物語の中の人物と演じる人物が一体」となっていることを目に見える形で表現しているのです

ポール・クローデルの哲学的考察

 フランスの詩人で劇作家でもあるポール・クローデルは、1921年から4年間、駐日大使を務めましたが、能の愛好家としても知られています。彼は能面と演者の関係を次のように記しています。
 「能面は演者の肉体をさえぎる。同時にそれは外界からの働きかけから身を守ることでもあった。そうした演者の心理的な孤立の中でこそ、能は時間と空間にわたる手法を獲得したのだ。もはや演ずる者の内側に感情があるのではなく、演ずる者が感情の内側に身を置いているのだ」
 彼は、日本から着想を得た多くの作品を残していますが、その一つに、武士と先妻の亡霊、さらに後妻を登場させて、彼らの闇に交差する内面のこだまを形象化した『女の影』があります。クローデル自身が「これは、私の能だ」と呼んでいた作品だそうで、のちに創作能『面影』として2018年に国立能楽堂などで上演されました

駐日大使時代のクローデル
金剛能楽堂での公演ポスター

 今回は能が世界最古の総合舞台芸術であり、世界的にも共感を得ていることを記しました。次回は、天女を主人公にした「羽衣」や、野外で行われる薪能(公演形式)についてご案内します

 執筆 加藤和郎(I-Media情報バザール主宰・元NHKプロデューサー&名古屋学芸大学教授)

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