伝えたい日本のこころ

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日本に古くから伝えられてきた説話や物語、偉人伝のなかから、「日本的精神」を知っていただくための最初の道しるべとなるであろう10話を挿絵とともにお届けします。日本では、家庭教育の中で、厳格な祖父母から聞かされる古典、父や母の膝の上で読んでもらう絵本、さらにラジオ、テレビ、映画などでおなじみの場面です。日本が世界に誇るアニメやマンガ文化にも、形を変えながらも引用されることの多い“日本的精神”の背景とも言えます。それらを、「日本画」と呼ばれる独特な画調と岩絵の具の渋い色合いで、日本への関心を深めていただければ嬉しいです。

絵と文 中村麻美

その一 かしこい小僧さん

 昔、一休(いっきゅう)さんというとんちで評判の小僧さんがいました。

 ある日のこと、評判をききつけた殿様が、一休さんをお城に招きました。「ひとつ頼みがある。衝立(ついたて)の虎が絵から抜け出して悪さをする。なんとかしてしばりあげてくれぬか」。一休さんは、「それはお困りでしょう。おまかせください」。そう言うと鉢巻きをして腕をまくり、縄をうけとって、衝立の前でむんっとかまえました。

 「用意はできました。さあ、衝立から虎を追い出してください」。殿様は思わず言いました。「何を申すか。絵の虎を追い出せるわけがないではないか」。すると一休さんはにっこり微笑(ほほえ)んで、「それは残念です。出てこない虎をしばることはできませんから」と言って座り直して姿勢を正し、ゆっくりと礼儀正しくお辞儀をしました。それを見た殿様は声を上げて笑いました。「あっぱれな小僧じゃ。ほめてとらすぞ」。一休さんは、たくさんの褒美(ほうび)をもらってお寺に帰りました。

<作者より> テレビアニメが世界中で放送されて愛されたとんち小僧の一休さんを代表するエピソードです。中国、香港、台湾、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアほか、ハワイやイタリアでも放送され、大人気だったそうです。とんち話は無理な要求に対して機転をはたらかせて応じ、笑いで終わらせるもので、日本の話芸「落語」と同じカテゴリーだと思われます。挿絵では、怖いけれどどこか可愛い絵姿の虎と一休さんの間に通いあうものを想像しながら描きました。

その二 三本の矢の教え

 中国地方を治めた戦国武将・毛利元就(もうりもとなり)には、三人の息子がありました。ある日、元就は三人を呼んで、めいめいに一本ずつ矢を渡して言いました。「これを折ってみなさい」息子たちは何の苦もなく、ポキンと矢を折りました。

 次に元就は、三本の矢をもたせ、「次はこうして折ってみなさい」と命じました。息子たちは、三本の矢の束を一生懸命折ろうとしましたが、どうしても折ることができません。元就は言いました。「よいか。細い矢でも三本あつまれば、それほど強くなる。おまえたちも兄弟三人力をあわせ、国を守っていけば、どんな敵にも負けることはない」。息子たちは父のこの教えを決して忘れず、心をひとつにして困難に立ち向かいましたので、毛利家は末長く栄えたということです。

<作者より> 三本の矢の逸話には類似した逸話が世界中にあります。原型は紀元前6世紀頃のギリシアでつくられたイソップ寓話の「三本の棒」ではないかといわれています。ほかにも中国の故事や、モンゴル帝国を築いたチンギス・カンが幼い頃に兄弟争いをしたとき、母からに与えられた教訓なども早くから伝えられていました。世界中に共通する伝説は、偶然によるものか、伝播によるものか、興味深いところです。

その三 八岐大蛇

 スサノオノミコトが出雲国(島根県)を歩いていると、老夫婦が娘とともに泣いているのに出会いました。老夫婦の言うことには、八つの頭と八つの尾を持つ恐ろしい大蛇・八岐大蛇(やまたのおろち)に、娘・クシナダヒメが餌食になって食べられてしまうので泣いていると言います。スサノオノミコトが、「自分はアマテラスオオミカミの弟である。娘を私に奉るならば、助けてやる」と告げると、老夫婦は喜んで承諾します。そこでスサノオノミコトは酒の入った瓶(かめ)を八つ用意させ、大蛇を待ち受けました。

 しばらくして現れた大蛇は、瓶の酒を飲み、酔って眠ってしまいます。それを待っていたスサノオノミコトは剣(つるぎ)をもって、大蛇をばらばらに斬り刻み、見事に退治しました。このとき、斬った尾の中から出てきた立派な大刀(たち)は、アマテラスオオミカミに献上され、のちに霊剣・草薙剣(くさなぎのつるぎ)として「皇位」を継承する際の秘宝「三種の神器」のひとつになりました。

<作者より> グリム童話に類話があるということで、拙著のドイツ語版絵本では、この絵が表紙に選ばれました。グリムでは7つの頭をもつ竜を退治するお話です。(こうした神話や伝説から授けられるイメージに要注目。例えば竜は西洋では破壊や邪心の象徴ですが、東洋では産み出すもの、豊穣のシンボルです。八岐大蛇では、破壊の怪物が霊剣を産み出すのも興味深いところです)神話や伝説は民俗特有の心理的なメッセージを後世に引き継いでいますが、他国と共通する点もあることにはなんだかわくわくしますね。

その四 川中島の戦い――謙信と信玄

 戦国時代、越後(新潟県)の上杉謙信と甲斐(山梨県)の武田信玄は、中間地点にある信濃(長野県)の川中島を戦場に何年も争い(戦)を続けました。4回目の合戦の夜明け前のことです。霧の晴れ間から、上杉の旗印が現れました。その夜は霧が深く、武田方は敵が攻めてくるのは朝になってからだろうと油断していました。両軍入り乱れての合戦の最中、信玄のもとに、味方の討ち死にの知らせが次々届きます。しかし、信玄は動じることなく、一人で作戦を練っていました。

 すると突然、謙信がたった一騎で、本陣に駆け込んできて、「覚悟!!」と信玄めがけて刀を振りかざします。カチン! 信玄は南蛮鉄の軍配でうけとめ、にらみあいますが、結局勝負はつきませんでした。

 この戦のあと、駿河(静岡県)の今川と小田原(神奈川県)の北条が山に囲まれて海のない、つまり塩が取れない甲斐に塩を売らないよう計略しました。それを聞いた謙信は好敵手(ライバル)である信玄にあえて塩を送りました。「戦の勝敗は弓矢できめる。塩で敵を苦しめるのは不勇不義の至りである」。信玄は喜んで越後の塩を受け取りました。

<作者より> 最も尊敬される戦国武将のひとり、上杉謙信の美談です。「敵に塩を送る」は、今の時代にこそ必要な物語であると思います。人の世の義とは何か――謙信の居城であった新潟県上越市の春日山城(かすがやまじょう)は山城で、登る間にそんなことをじっくりと考えることができる人気の歴史スポット、下界を見下ろす謙信公の銅像も有名です。

その五 米百俵の精神 小林虎三郎

 日本は1868年、武士による封建社会から西欧的近代国家に生まれ変わりました。その過程で新政府軍との戦いに敗れた長岡藩(新潟県)領内は焼け野原となり、領民は食べるものもない状態でした。やがて、窮状をみかねた支藩(親戚のような藩のこと)・三根山(みねやま)藩から、見舞いとして百俵の米俵(1俵=約60キログラム)が送られてきました。藩の武士たちはその米が分配されるものと喜びました。しかし、ときの長岡藩大参事・小林虎三郎はこう言いました。「百俵の米も食えばたちまちなくなる。しかし、もし教育に当てれば明日の一万、百万俵の価値がある。国が興るのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。今こそ学校を建て、人物を養成するのだ」。藩士たちは抗議しましたが、虎三郎は命がけで説きふせました。

 そうして米百俵を売った金を元手に開校された国漢(こっかん)学校では、士族(武士階級)の師弟だけでなく、農民や町民の子どもも入学が許可され、優秀な人物が多数輩出されたのでした。

<作者より> 目先のことより、未来のために――新潟県長岡市では、毎年秋に米百俵まつりが開催されます。今でも、三根山藩の殿様(現在のご当主)と長岡藩の殿様は仲良しでいらして、祭りの武者行列に並んでお出ましになられます。皆で協力しい、祭りを盛り上げ集う人々の姿に、米百俵が支えた未来をみる思いでした。

その六 本多忠朝とサンフランシスコ号

 上総国(千葉県)大多喜城主・本田忠朝(ほんだただとも)の逸話です。

 1609年、フィリピンからメキシコに向かうスペイン船サンフランシスコ号が房総半島の沖で嵐にあい、座礁しました。難破船を見つけた村人たちは、懸命に救助活動を行ってフィリピン諸島の総督・ドン・ロドリゴと乗組員317名もの命を救いました。

 城主・本田忠朝は、肌の色だけでなく言葉も異なる(当時“異人”とよばれていた外国人の)彼らを手厚く世話し、客人として尊重するよう命じます。忠朝は、鎖国政策をとる時代でも、人命の尊さだけでなく、外国との交流の大切さを認識していたのです。

 忠朝の庇護を受けたロドリゴ一行は徳川家康にも接見やがて家康が三浦按針(江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士ウィリアム・アダムスの日本名)に造らせた船で帰国しました。ロドリゴたちはこのとき、日本人の心の豊かさに感謝の気持ちでいっぱいであったといいます。

<作者より> 1888年、日本とメキシコは日本にとってアジア以外の国との初めての平等条約・修好通商航海条約を締結しました。その背景には、このサンフランシスコ号救出の美談が関係したともいわれています。その後も日本とメキシコの間には、密接な絆、友好関係が築かれています。

その七 橘曙覧 「独楽吟」

   たのしみは朝起きいでて昨日まで
   無かりし花の咲けるみるとき

 越前福井藩の歌人・橘曙覧(たちばなのあけみ)の「独楽吟(どくらくぎん)」は、貧しいながらも日常生活の何気(なにげ)ない出来事に喜びと楽しみを見出し、穏やかな感動を詠みあげた歌集です。

 曙覧の才能は、福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に高く評価されました。春嶽は曙覧に扶持米(ふちまい・給料としての米)を授けようとしたり、万葉集から秀歌を選ぶよう命じたり、また住まいを訪問するなどして、厳しい階級制度をこえて異例の交流をあたためたといいます。

<作者より> 「独楽吟」を代表するこの歌は、1994年に平成天皇・皇后両陛下が訪米された際、クリントン大統領が歓迎スピーチで引用したことから、日本でも再認識されました。クリントン大統領はこの歌を通して、日本人の心の豊かさを称賛しました。「独楽吟」の歌はすべて「たのしみは」ではじまります。どのようなときにも「たのしみ」を求めるこころがあれば、人生を豊かに過ごせることを私たちに教えてくれます。

その八 夫の危機を救う弟橘媛

 ヤマトタケルノミコトの妃(きさき)、オトタチバナヒメ(弟橘媛)の伝説です。

 蝦夷(えみし)征伐の途中、ヤマトタケルノミコトが相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)へ渡ろうとしたとき、嵐にあいました。船は今にも転覆しそうでした。オトタチバナヒメは、大切な使命を授かっている夫の身をなんとか守りたいと考えました。そして海神の怒りをしずめようと、荒れ狂う海に身を投げたのでした。すると、たちまち大波はおさまり、船は無事に安房国(千葉県)に到着することができました。

   さねさし相模の小野に燃ゆる火の
   火中に立ちて問いし君はも

 身を投げる前、オトタチバナヒメは感謝の歌を残しました。駿河国(静岡県)で火に囲まれたとき、ヤマトタケルが命をかけて自分を守り、励ましの声をかけ続けてくれたことを詠んだ歌でした。

<作者より> 美智子上皇后は、1998年の国際児童図書評議会ニューデリー大会の基調講演で、海外に向けて子供時代の読書の思い出について語られたスピーチの中で、「愛と犠牲とが近いものとして、むしろひとつのものとして感じられる物語であった」とお話しになりました。千葉県には、木更津(妻の運命を悲しんだヤマトタケルはその地を離れがたく、「君去らず」から)、袖ケ浦(弟橘の袖が流れ着いたとされることから)など、この伝説にちなんだ地名が残り、古今を結ぶ愛の物語として語り継がれています。

その九 つるべの朝顔

 加賀国(石川県)の松任(まつとう)というところに、千代という名の娘がいました。

 ある朝のこと、千代が水をくみに井戸にいくとつるべに朝顔がからんでいました。朝顔のつるをはずすのはかわいそうだと思った千代は、水を汲まずにとなりの家へ行き、水をわけてもらいました。そして、その心境を俳句に詠みました。

   朝顔につるべとられてもらい水

<作者より> この俳句は、1894年にイギリスの詩人エドウィン・アーノルドが英訳して引用したことから、各国の日本紹介の本などでも頻繁にとりあげられました。今でも海外で愛誦されているそうで、米国の教科書でも取り上げられています。日本人のやさしさ、庶民の暮らしの中のささやかな名場面を詠んだ千代女の俳句は、世界中の詩人たちに愛されているのです。

その十 長岡花火『白菊』

 第二次世界大戦末期の1945年8月1日、米軍の空襲で新潟県長岡市は焼け野原と化し、多くの命が失われました。長岡では毎年、空襲のあった1日と、2日3日の花火大会の冒頭に、慰霊と祈りを込めて、大輪の菊をあらわした白一色の花火「白菊」が打ち上げられます。

 花火師の嘉瀬誠次(かせせいじ)さんは、1990年、ロシアのハバロフスクで三千発の花火を打ち上げました。大戦で捕虜となり、シベリア抑留を経験した嘉瀬さんは、現地で亡くなった戦友たちを弔いたいと思ったからでした。このとき、万感の思いを込めて持参したのが「白菊」でした。翌日、嘉瀬さんは日本人墓地を訪ね、ソ連兵が眠るお墓にもお参りしました。「敵味方の区別なくお参りできて、胸のつかえがおりたような気がします」

<作者より> 戦後70年の2015年8月15日には、ホノルルの真珠湾で「白菊」が打ち上げられました。そして現在、長岡市では毎年、12月8日の日米開戦の日にも打ち上げられます。「白菊」は今も世界中の人々に、日本人の世界平和への祈りのメッセージを送り続けています。

中村 麻美(なかむら まみ)     

画家・挿画家。
深層心理学をメソッドに日本人の精神性を研究、画塾で作画を学び、日本人の心を伝えるメディアとして絵画を志す。雑誌、新聞、テレビ番組等で歴史物、武人画、創業者等の挿画を手がける。
NHK BSニュースキャスター、1986年度ミス日本グランプリの経歴をもつ。
(公財)日本武道館発行月刊『武道』表紙絵「伝えたい日本のこころ」シリーズ(企画ならびに絵と文2007〜)では、日本人の精神伝統を伝える物語を描く。作品を通して、誰もが共感する善なる心のようなものをよびさます仕事、特に若い世代への語りかけに注力し、各地で展覧会、講演活動を行っている。著書に「伝えたい日本のこころ」(日本武道館発行)、そのドイツ語版“Von Amaterasu bis Olympia”が2020年に出版された。

日本画家・中村麻美オフィシャルサイト 麻美乃絵
https://maminoe.jp/

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