名刀 「正宗」 ~なぜ「正宗」は名刀なのか~

刀匠正宗 二十四代 山村綱廣氏

名刀といえば「正宗」。これは私が幼い頃からの印象である。つまり「正宗」とは子どもまでその名を知る有名な刀だった。そしてそれは刀を作った名刀工の名でもあった。近年仕事で日本文化に接することが多くなり、鎌倉で700年の伝統を守る正宗24代目山村綱廣(つなひろ)先生にお会いする機会も得て、ふっと素朴な疑問が湧いて来るようになった。正宗はなぜ名刀なのか? いろいろ資料を読み、山村先生のお話を伺っても、刀剣の世界はあまりにも奥が深く、素人の私にはその謎が解ける訳ではない。以下は私自身の作刀に関する無知、あるいは生没年が不詳であるなど謎が多い刀工達の生涯を推し量る難解さ、などを差し引いた上で、正解ではないが1つの考え方としてお読みいただければありがたい。

「相州伝」とは

 刀剣の歴史は大きく分けて4つの時代に分けることができる。日本刀が作られ始めたのは平安時代後期で、それまでは中国や朝鮮から伝わった反りの無い真っ直ぐな刀「直刀(ちょくとう)」だった。平安時代末期から戦国時代までに作られた刀剣を「古刀(ことう)」、それ以降明治9年に廃刀令が出されるまでに作られた刀剣を「新刀(しんとう)」、それ以降の刀剣を「現代刀(げんだいとう)」と呼んでいる。古刀期は作刀が盛んな地域に偏りがあり、現在の奈良地域にあたる「大和(やまと)」、京都の「山城(やましろ)」、岡山の「備前(びぜん)」、神奈川(鎌倉)地域の「相州(そうしゅう)」、岐阜の「美濃(みの)」で主に生産されていた。それら地域の特徴的な作風を「山城伝」「大和伝」「備前伝」「相州伝」「美濃伝」と言い、総称して「五箇伝(ごかでん)」と呼ばれる。
 鎌倉幕府5代執権北条時頼は、当時の刀鍛冶の先進地である山城から粟田口国綱(あわたぐちくにつな)、備前から備前三郎国宗(びぜんさぶろうくにむね)ら名工を招聘して、鎌倉鍛冶の作刀技術を向上させようとしたといわれており、それら名工に師事したのが、相州伝の祖といわれる新藤五国光(しんとうごくにみつ)である。国光は山城伝や備前伝の作刀技術を学び発展させることにより、幕府のお膝元である鎌倉に鎌倉鍛冶ならではの作風(相州伝)を確立しようとしたことだろう。そしてその意思を継いだのが弟子である藤三郎行光であり、相州伝を完成させたのが行光の子、五郎入道「正宗」だったといわれている。相州伝の特徴は、硬軟の鉄を混ぜ合せて鍛え、高温で焼くことにより、地肌美しく、刃紋が大きくなることであり、それまでの刀と比べて見た目にも立派で美しい物であった。

国難「元寇」(相州伝の歴史的背景)

 正宗が生きた鎌倉時代の国難といえば2度にわたる「元寇」である。その昔教科書で学んだイメージでは元軍の襲来は神風(暴風雨・台風)によって防がれた、という印象を持っていたが、鎌倉鍛冶のことを調べる過程で、このモンゴル帝国(元)の日本侵攻について資料を読んでみると、私が持っていたイメージとは随分異なることに気がついた。第1回目の「文永の役」(1274年)と2度目の「弘安の役」(1281年)において、鎌倉時代の武士は元の大軍に対して非常に勇敢に戦い、反撃をしていたのである。1回目の元襲来では、一騎打ちではなく集団で攻撃する元軍の戦法や、毒を塗った矢、火薬を使った見たこともない武器などに苦戦を強いられた。特に日本の鎧(よろい)と違う元の革製甲冑は、当時の日本刀では切り裂くことが難しかった。それでも九州を守る武士は大きな被害を出しながらもなんとか元の侵攻をくいとめることが出来た。
 その後鎌倉幕府第8代執権北条時宗は、元の再度の攻撃に備えて博多湾一帯に防御用の石塁を築かせるとともに、九州防御のための兵力を増強した。刀工達も戦場での戦いの様子を武士から聞き、折れたり曲がったりした刀を研究して再度の来襲に備えて刀の改良をしたといわれている。2度目の元寇の際にはこれら鎌倉武士の備えが功を奏して、元の大群(軍船4千隻以上、兵力約15万人)は非常に苦戦し、戦いは6月から8月末まで続いた。神風(台風)で3分の2の船を失ったといわれる元の大敗は、刀工達の刀の改良も含めた防衛力の強化が大群の侵略をよく防ぎ、台風の季節まで元軍を海上に押し留めた鎌倉武士の活躍によるものといえる。​

山村氏の弟子である茂木一廣氏が、硬軟の鉄を合わせて鍛錬しているところ

名刀「正宗」の特徴(用語の解説付き)

 正宗が完成した相州伝では、作刀作業の中で最も大切な工程である焼き入れ*1の際、刀を焼く温度は高く冷却は急冷といわれ、結果できた刀は、鉄の一般的な性質から考えると曲がり難く折れやすい傾向がある。それを刃鋭く、折れにくい刀にするために、高温の加熱法と冷やすときの水温の状態を繰り返し試みて最上の方法を見つけ出したのだろう。また、相州伝では、それまでの作刀技術ではなかった硬軟の鋼を練り合わせて鍛える鍛刀法を用いて、焼き入れの方法に合った粘りのある強い鋼を作り出した。
 初代正宗の刀は、長寸、反り*2浅く、適当な身幅*3で、重ね*4薄く、鎬(しのぎ)*5高く、平肉*6付かず、切先*7延び、フクラ*8枯れ、地沸え(じにえ)*9よく付くだったといわれている。刀が長いのは元との海戦で長い刀が必要だったこと、反りや身幅は刀の強度に関わりそうで、重ねが薄く、鎬が高く、平肉が付かず、切先が延びて鋭いのは、元軍の革製甲冑を切り裂くためではないかと思えてくる。
 正宗の弟子は多く、鎌倉に限らず山城、備前、美濃の名工まで含むといわれている。それら全てが本当に正宗の弟子であったかどうかは議論があるということだが、一子相伝(秘伝を自分の子1人だけに伝えて他に漏らさないこと)が当然の刀工の世界に於いて、他の流派にもその技術を伝えたものと思われる。仮にそれが外敵を打ち破るための正宗の心意気だったとすると、その人間性にもロマンを感じるのは私だけだろうか。
≪用語解説≫
*1 : 鍛錬した鋼を刀の形に整えた後、刀身全体を高温で焼き上げ水槽の中に入れ冷して硬化させること。
*2 : 日本刀のような湾刀は直刀と違って反っている。「反り浅く」は反りが少ない意味。
*3 : 刀身の幅のこと。
*4 : 刀の棟から見た厚みのこと。
*5 : 刀の棟と刃の間にある横に張った部分で横から見れば線(筋)になっている。
*6 : 刃先から鎬までの鉄の量感で、「平肉付かず」はこの部分が薄めなこと。
*7 : 刀身の最先端の鋭く尖った部分のこと。
*8 : 切先のカーブしている部分のこと。「フクラ枯れ」はカーブせずに直線的なこと。
*9 : 焼き入れでできたマルテンサイトという鋼の組織が、粒状に肉眼でも見えるものを「沸え(にえ)」といい、それが刃紋部だけでなく、刀の地肌部分にも出るもののこと。「地沸えよく付く」は、地沸えが多いという意味。

16世紀後半に活躍した正宗六代作の刀。刃紋の縁に沸えが見える。

なぜ「正宗」は名刀なのか

 正宗が完成させた相州伝の刀は硬軟合わせた鋼を使い、高温で焼き、急冷して作刀される。その結果「沸え」が深い(鋼の組織が粒状にクッキリした)刃紋が大きく美しい刀となる。足利義満(室町時代)、豊臣秀吉(安土桃山時代)、徳川家康(江戸時代)など、各時代の天下人達が正宗の刀を愛したと言われるのは、その見た目の美しさや品格が影響していることだろう。そして天下人達は「名刀正宗」を功労のあった配下への恩賞にしたという。そのような背景もあり、正宗の刀について見た目の美しさが強調されていることが多いような気がする。
 しかし、私自身としては今回いろいろな資料を読み、元寇という我が国の歴史上最大級の国難を背景として、それに合わせるかのような相州伝の発展を知ることにより、名刀「正宗」は国難を憂え、鎌倉鍛冶の技術の向上を望み、真摯に技術を磨いた名刀工の生み出した奇跡だったのではないかと感じた。
 正宗24代目山村綱廣先生にお聞きしたところ、初代正宗の刀は地金が紫がかった黒に見え、刃紋の色は銀色に光って美しく、いくら工夫を凝らして作刀してみても初代の色は出せないという。「きっと鋼も今のものと違うのでしょう」と言って、700年前に思いを巡らす先生の純粋な刀鍛冶らしい表情が印象的だった。

≪取材協力≫

正宗工芸美術製作所
神奈川県鎌倉市御成町13-29
TEL:0467-22-3962, FAX:0467-22-9364
HP: http://www.sword-masamune.com/
山村綱廣 刀匠正宗 二十四代

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