平泉 平和の願いで築かれた理想郷

2010-10-01

平泉

平和の願いで築かれた理想郷

 かつて、京の都に比肩するほど輝かしい繁栄を誇った奥州・平泉は、岩手県の南部に位置しています。緑豊かな丘陵に囲まれ、北上川がゆるやかに流れる平野には、現在のどかな田園風景が広がっています。が、ここにはその昔10万もの人口を抱える大都市が存在していました。どんな人々の往来があり、暮らしがあったのか――この地を訪れる人の誰もがそんな思いをはせることでしょう。今回は、奥州藤原4代が栄華を極めた歴史の舞台、奥州の都・平泉を紹介します。

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平泉文化の礎

 今からおよそ900年前の平安時代後期、奥州藤原氏のもとで花開いたひとつの文化がありました。それが平泉文化です。
 11世紀末、奥州藤原氏初代清衡(きよひら)はこの地に本拠を構えました。幼いころから幾度の戦乱をくぐり抜け、肉親同士の戦いや妻や子までも殺される数奇で凄惨な運命をたどった清衡は、命の尊さを実感し、戦争の無い平和な社会、つまり極楽浄土の世界をそのまま形にした理想の仏教都市建設に力を注ぎました。その思いは二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)、そして四代泰衡(やすひら)の時代へと受け継がれ、およそ100年間にわたり、京の文化の影響を受けながら、広い地域との交易を背景に独自の文化として発展していきました。

「奥州の都」と呼ばれた理由

 奥州藤原氏の理想とする都市とは、現世に仏国土を造るということでした。いくつもの寺院仏閣を建てることにより都市を浄化させ、また周囲の山々や川などを借景として利用することにより、平泉は歴代当主によって徐々に整えられていきました。
 さて、奥州は京から遠く離れた地でありながら、平泉が経済、文化ともに大きな発展を遂げた背景には、良質で豊富な砂金、そして絹、漆、馬などが産出されたほか、水・陸ともに交通の要衝として交易が盛んに行われていたからだといわれています。中尊寺金色堂をはじめとする寺院建築や平安美術を鑑賞していると、かつてここで国内外の多くの人や物が往来し、人と文化が交流し合う、まるで都のような繁栄をした痕跡を見つけることができます。
 それでは、それらの痕跡をたどりながら中尊寺と毛越寺を巡ります。

平安美術の宝庫・中尊寺

 中尊寺は、平泉の中心部から北の関山(かんざん)丘陵に位置します。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗で、850年に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開山されたと伝えられています。12世紀のはじめ、奥州藤原氏初代清衡が、奥州をめぐる幾度の戦いで命を失った多くの人々を敵味方関係なく供養し、浄土へ導くために造営した寺院です。
 「月見坂」と呼ばれる杉並木の表参道を登っていくと、右側に中尊寺本堂が現れます。そしてさらに進むと左手に宝物館である讃衡蔵(さんこうぞう)が見えます。ここには平安時代後期の仏教美術など3,000点以上の国宝、重要文化財が収蔵されています。

境内唯一、創建当時の姿を残す金色堂

 中尊寺境内にある建造物の中で異彩を放つのが金色堂です。1124年初代清衡によって建立されました。現在は、雨風から守るために1968年に新たに建てられた覆堂(おおいどう)の中にあり、金色堂内外に貼られた金箔が神々しいまでの輝きを放っています。大きさは、5.5メートル四方とやや小ぶりながら、その荘厳な存在感に圧倒させられます。ご本尊の阿弥陀如来をはじめとする、いくつもの異なる仏像が並ぶ珍しい堂で、平泉文化の粋を集めた工芸技術で彩られています。また、初代の清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と四代泰衡の首級が安置されている霊廟でもあります。
 それでは、続いて平泉を代表する寺院のひとつで現存する日本最古の浄土庭園を擁していると知られる毛越寺を案内します。

日本最古の浄土庭園・毛越寺(もうつうじ)

 まるで一幅の絵画のような美しい浄土庭園が広がる毛越寺。二代基衡と三代秀衡によって造営された寺院です。周囲の山々を背景として取り入れ、浄土を表現した庭園は、四季折々の花々と草木の色の移り変わりを楽しむことができます。度重なる火災により、40以上あった堂塔はすべて焼失し、残念ながら今ではその建造物群を見ることはできませんが、その遺構がほぼ完全な姿で残っていることから、高い文化価値を認められています。
 また、この境内には池に水を引き入れるために造られた水路「遣水(やりみず)」があり、毎年5月には、遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む優美な平安時代の遊び「曲水(ごくすい)の宴」が催されます。また、そのほかの平泉の伝統行事は現在に受け継がれ、毛越寺をはじめ平泉の至るところで一年を通してそれらに触れることができます。

夢の跡を未来に伝える

 100年にわたり、奥州藤原氏が繁栄と発展を遂げた平泉文化は、ついに四代泰衡の時代にその幕を閉じます。奥州藤原氏の滅亡を語るには欠かせない人物、それは源義経(みなもとのよしつね)――兄の鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)に追われ平泉で三代秀衡の庇護を受けた義経は、秀衡の死後、その後ろ盾を失い、ついに四代目泰衡の裏切りによりこの地で終焉を迎えます。そして、奥州藤原氏の力を恐れた頼朝は、義経をかくまったことを大義名分に平泉に大軍を送り、栄華を極めた奥州藤原氏を滅亡させました。その後、平泉は衰退の一途をたどり、500年後、この地を訪れた俳聖松尾芭蕉が『夏草や兵どもが夢の跡』と人の世の栄華をはかなんでこの句を詠んだほど、平泉は荒れ果てた時期もありました。しかし、悠久の時を超えてさまざまな人々から保護された文化の痕跡は、平泉の文化遺産として今に残り、現在、中尊寺や毛越寺そして周辺の遺跡群は世界遺産暫定リストに既に登載されており、近い将来に世界遺産として登録される日を待っています。

 

<平泉までの交通手段>
東京駅から一ノ関駅まで東北新幹線で約2時間10分
JR東北本線で 一ノ関駅から平泉駅まで8分
平泉駅から中尊寺まで1.6km
平泉駅から毛越寺まで0.7km

社団法人平泉観光協会 http://hiraizumi.or.jp/
中尊寺 http://www.chusonji.or.jp/
毛越寺 http://www.motsuji.or.jp/

協力:中尊寺、毛越寺、社団法人平泉観光協会、平泉町観光ガイド事務所

 

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