江戸に玉川上水あり -100万都市の礎-

江戸に玉川上水あり -100万都市の礎-

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 「水」は人類の永遠のテーマ。日本人と水は文化的にも深いつながりがある。日本の食―米、酒、豆腐、和菓子なども良質な日本の水が必須である。神社でのお清め、禊(みそぎ)も水の力を示している。
 徳川家康が見渡す限りの湿地帯に足を踏み入れ日本の新しい政治の中心―「江戸」を建設し始めたのはおよそ400年前。しかしその「江戸」は、水には恵まれぬ土地であった。上水の確保は江戸の発展に不可欠、最大のプロジェクトとなった。

江戸東京の誇りである上水

羽村の玉川上水

 「(将軍の)おひざもとで生まれ、水道で産湯を使う」が江戸っ子の自慢。幕末に来日した外国人が驚いたのは奈良の大仏と江戸の上水であったとの記録も残っている。18世紀初めに世界最大の100万都市を支えた配水管総延長150kmの上水は、この時代の給水人口、面積とも世界最大の給水システムであった。身分の違いなくひかれた上水は、長屋では井戸端会議のおしゃべりや、町民が湯屋に通える楽しみ、また、衛生的な江戸の生活に欠かせないものとなった。
 同じ時代のヨーロッパの国と比較しても江戸の死亡率は低かったとの統計も残っている。それから江戸の上水400年間生き続け、そのひとつ玉川上水は現在も都民の喉を潤し、周辺に残された自然が癒やしを与えてくれている。

玉川上水の建設

 江戸は海に近く埋立地も多かったため、井戸を掘っても塩分の含まれた水しか出ない。徳川幕府は開府にあたり上水の確保に乗り出した。17世紀の初めには現在の井の頭池を水源とする神田上水を建設。また赤坂溜池の水も利用されていた。1609年の江戸の人口はまだ15万人ほど。しかしその後三代将軍家光の時、参勤交代が確立すると各地の大名の家臣、家族が江戸に住むようになり人口が増え始めた。1733年までには、人口が100万人に達したといわれる。

 そこで、1652年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立て、庄右衛門、清右衛門兄弟に6000両(1両15万円とすると9億円)を渡し工事を頼んだ。1653年4月4日工事開始。多摩川の取水地点の設定に苦労しながら2度の失敗を経て、1653年11月15日羽村(はむら)の取水堰(しゅすいせき)から四谷大木戸(よつやおおきど)まで43kmを8カ月(この年は閏年で6月が2回あったため)で完成させた。兄弟はこの功績を幕府に認められ後に「玉川」の名字を賜った。ついに江戸城まで配水管が敷設されたのは翌年1654年6月のことであった。
 これにより四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水を行った。

玉川兄弟の像
玉川上水堰元水行之図 (東京都水道歴史館所蔵) 羽村の堰

世界最先端の技術

 多摩川の取水口である羽村は標高126メートル。四谷大木戸までの標高差は92m。100m掘り進んで21cmの落差しかつけることができない。10mではわずか2cm。多摩川の下流から取水すれば水路は短くてすむが、それでは高低差がなさ過ぎて江戸市中まで自然勾配で水を引くことはできない。取水を決めた羽村付近は多摩川が右側に大きく曲がっていて水量が減っても勢いよく水を取り入れることができた。近隣から集めた優秀な土木作業員の熱意に負うことも大きかったであろう。一度福生から取水をした際には、武蔵野台地の一部が厚い砂利層のため水が地層に吸い込まれてしまう「水喰らい土」にあたり、計画の立て直しを余儀なくされた。(現在も福生市に「みずくらいど公園」として残されている)。
 また羽村の取水堰にも数々の工夫が施され、特に「投渡堰(なげわたしせき)」と呼ばれる堰は杉丸太、そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利を組んだ簡単に流してしまえる仕組みになっており、台風、大雨の際には堰を壊して濁流を多摩川本流に流し、玉川上水には流入させない。天然素材なので環境に影響がなく作り直すのも簡単で、実際今でも「投渡木(なぎ)払い」と呼ばれるこの方式が途切れることなく使われており、世界でも類がない。

現在の羽村堰 投渡堰:多摩川から水を取り込む
第一水門:玉川上水に流す水の量を調節

 一方、四谷大木戸からは地下に配水管を埋めて、市中に水を送っていた。これも自然勾配を使ったもので繊細な設計と堅固な配水管が必要となった。調達が容易であったので木で配水管を作った。木樋(もくひ)である。水が漏れることがないように、精緻な技術が必要であったが、当時の船大工、穴蔵大工(江戸は火事が多かったので、大きな木の箱を作り地中に埋めて貴重品を保管した)が腕をふるった。江戸八百八町の半分の大名、武家屋敷、町人の住む長屋にまで、配水管が行き渡り、長屋には井戸が完備され、遠くまで水を汲みに行くことはなかった。

麹町区内上水樋線之図(東京都水道歴史館所蔵)
木樋(協力:東京都水道歴史館)

 配水管の交換は定期的に今の水道工事と同じように行われ、水質管理のために地上から水質が検査できる枡(ます)の設置の工夫もあった。開渠(かいきょ)であった羽村から四谷大木戸までの保守は近くの村々で管理し、水質管理は水番人が行った。現在の小金井市から武蔵野市桜堤には両岸に桜を植えた。桜の根が張り堤を守り、花見客が堤を踏み固める。のちに江戸の桜の名所となり現在も国の名勝に指定されている。

長屋の井戸から水をくむ(協力:東京都水道歴史館)
長屋の井戸、洗濯おけと食器洗い道具 (協力:東京都水道歴史館)
井戸の地中部分の側板、木樋と部品(協力:東京都水道歴史館)

江戸の水と生活

 こうして100万都市江戸は上水に恵まれたが、江戸っ子は子供のころから、金を粗末にするより水を粗末にしないようにしつけられた。米のとぎ汁は拭き掃除に、そのあとは植木の水に使用した。家でも安全な上水が使え、外食できる食堂もたくさん現れた。上水は江戸の人々の楽しみに大きく貢献した。

長屋 手前の木桶に水を汲んでためていた(協力:東京都水道歴史館)
長屋 水甕(みずがめ)(協力:東京都水道歴史館)                        

 上水利用料として、大名は石高によって、町人は家主が持ち家の規模によって水道代である「水銀(みずぎん)」と、木樋は20年に1度付け替えが必要だったため保守のための「普請金」を払っていた。また毎年旧暦7月7日は「井戸さらいの日」として地域ごとに落ち葉を拾い井戸の内側を洗い清めた。江戸中期には20~30m四方に1カ所の割合で井戸が設置されていたが、上水が届かなかった本所、深川には「水売り」によって上水の水を運んでいた。
 下水も整備されていた。洗剤を使わない洗濯の後の水と雨水、その他洗い物・水浴び・洗髪などの排水が、地域の排水溝を伝い、堀や川に流れていた。糞尿は有機肥料として近隣農家が買い取っていたので、川に流されることはなかった。
 また玉川上水は、江戸市中に水を届けることのみならず、沿岸の村々に分水された。上水完成の翌年に野火止用水(のびどめようすい)への分水、その後小川、砂川、国分寺分水など30を超える分水が行われ、武蔵野に水を行き渡らせ、畑が広がり100万都市江戸の一大食料供給地帯となった。

玉川上水 上流より見た烏山分水口(東京都水道歴史館所蔵)

現在の玉川上水

 明治以降は淀橋浄水場(新宿西口、現在は京王プラザホテル付近)に向けて新たな水路が出来、利用された。現在も一部の水が活用されている。
 四谷大木戸には「水道碑記(すいどういしぶみのき)」が残っている。ここは玉川上水の水量や水質を管理した「水番所」があったところ。建設の理由や玉川兄弟の功績が記してある。徳川家十六代目(最後の将軍の次)徳川家達(いえさと)が題字を書いている。

 羽村から都心まで各自治体が大切に玉川上水を守っており、木々が生い茂る散歩コースとして都民の憩いの場所となっている。玉川上水に近い自治体の小学校では玉川上水を学ぶ授業が行われ、400年後の現在も江戸時代と変わらずに玉川上水を守る人々を育てている。

多摩川羽村堰
羽村堰近くの水神社
西武鉄道 「玉川上水駅」
付近の玉川上水

 四季折々に景色が変わる楽しさや、訪ねてくる野鳥なども見どころ。長い緑道をひたすら歩き江戸時代に掘り進めた苦労を思うのも一興である。数多くの橋がかかっており、それも面白さの一つ。羽村から、福生、拝島、立川、国分寺、小平、小金井、武蔵境、三鷹、井の頭公園近くを経て杉並区烏山分水口まで沿線には公園も数多く、楽しく歩くことができる。

杉並区 久我山付近の緑道

東京都水道歴史館

 玉川上水を知るうえで欠かせないのが、JR御茶の水駅から徒歩8分ほどの場所にある東京都水道歴史館である。今回は館の企画調査責任者の金子智(さとし)氏からお話をうかがった。『上水記』(玉川上水開削から137年後1791年幕府によって編纂された公式記録)他貴重な資料を所蔵され、映像なども駆使してわかりやすく江戸上水・東京水道の歴史を展示している。実際に発掘された木樋、井戸も見ることができる。金子氏は特に玉川上水の技術の高さ、大規模であること、高度な測量技術をあげられ、さらに近代水道の基礎となったことの重要性を説かれた。2階は江戸の上水、1階は明治以降の東京の水道の歴史が展示されている。入場料は無料で、パンフレット、音声ガイダンスも英、韓、中国語がある。ライブラリーのほか、デジタルアーカイブも充実。

『上水記』(東京都水道歴史館所蔵)
東京都水道歴史館
企画調査責任者金子智氏

「東京水」に引き継がれる

 玉川上水に代表される大規模な江戸の水道システムは、現在、「東京水」として、水道水を使った酒蔵があるほど良質な水で、都民の生活を支えている。安全でいつも身近にある「東京水」。あらためて先人の努力、現在の水の守り人達に感謝したい。

≪協力≫
東京都水道歴史館
住所:東京都文京区本郷二丁目7番1号
TEL:03-5802-9040 FAX:03-5802-8041
ホームページ:  https://www.suidorekishi.jp/

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