外国人も気軽に楽しむ1630年創業の老舗旅館 塔ノ沢一の湯本館

首都圏近郊の代表的な温泉地「箱根」の老舗旅館「塔ノ沢一の湯本館」が外国人の人気を集めている。外国人個人客が4割に達するこの宿が支持されている背景に、「生産性」向上のための改革が「顧客満足度」につながっていることなど、純和風旅館の新しい在り方を紹介する。

100年以上前に建てられた有形文化財の宿

 交通の要所として賑う箱根湯本駅から国道1号線を10分ほど歩いて登っていくと、昭和初期に竣工した橋梁などの土木遺産や、国指定有形文化財の旅館などが集まっている塔ノ沢エリアが目の前に現れてくる。日本人にはさほど珍しくない眺めなのだろうが、外国人の目には古風な風情の「日本」が強く感じられ、ここに歩を進めていくと、まるでテーマパークにいる感覚になるようである。

旅人を迎える重厚な構えの玄関

江戸後期に歌川広重が浮世絵に描いた「一の湯」(橋の右側)

 この地で最初に開かれた宿なので「一の湯」と呼ばれる旅館の創業は1630年。明治時代の木造建築である今の建物は、現代の建築諸法令に照らしても十分な頑丈さを保ち続けており、部屋数は現在21あるが、1つとして同じ造りの部屋が無い。趣向の異なる部屋に泊まることを楽しみに、何度も訪れる国内外のリピーターも多い。外国人も、アルカリ性で肌をきれいにする効能がある塔ノ沢の温泉を、客室の露天風呂や大浴場で各自のペースで楽しんでいる。館内のしつらえにも、窓から見下ろす川と一体となった客室の光景にも、レトロな日本にタイムスリップしたかのような旅情が感じられる。

昔ながらの趣のある全ての客室から渓流を見下ろせる

やるべきことに集中する一の湯スタイル

 歴史ある建物に泊まることを体験できる一の湯本館だが、競争力を保つために価格を抑える必要性とのトレードオフとして、ここには女将や下足番、仲居さん、料理人はいない。旅館として提供すべきことを選択し、集中させたのである。
 箱根地域でグループ7館を統括する総料理長が1名いる他に各館に料理人を置かず、マルチタスクをこなす従業員が手分けして調理の最終作業を行っている。セントラルキッチンを設けてグループの調理を1カ所に集約することによって、より良い料理を提供し、かつ、品質を均質化できているから、「一の湯の味はこれだ」というのをどの館でも楽しめる。外国人にも楽しんでもらうために、各品の説明と食べ方をまとめた英語版のシートをもちろん配っている。日本人でも外国人でもしゃぶしゃぶの人気が最も高く、一の湯では定番化しつつある。外国人には、日本人を真似してやってもらい、日本体験のアクティビティーとして多くの方に喜ばれている。​

大浴場(金泉)

大正時代の様式を残している大広間 (食事は全てここで提供される)

 客室の冷蔵庫を空にしておく旅館が増えてきたが、初期に始めたのが一の湯だと言われている。一の湯では空にした代わりに館内に飲料の自動販売機を置き、その値段を街中と同じにして客の利便性を維持している。お茶出しを止める代わりに、客が選べるように2種類のお茶を部屋に置く。布団は客がセルフで敷くのだが、敷きやすいように特注のボックス型のシーツを開発した。「旧来の旅館においては、こちら側の都合でお客様に押し付けていた一方的なおもてなしが多かったのも事実でした。やっている人たちは良かれと思ってやっているので、なおさら始末に負えません。旧来の良いところはブラッシュアップして、悪いところは止めてしまうというのがトレードオフです。」と話してくれたのが営業マネージャー矢後信也(やごしんや)さん。

外国人に対しても日本人と同じ扱いが好評

 一の湯では、日本人が普通にやっていることを外国人にもあえてやってもらうよう勧めている。浴衣を着る、布団を敷く、肉をしゃぶしゃぶするなど全てのことがおもしろいようで、楽しんでやっている。布団敷きをセルフ化したときは一部の日本人客に不評だったが、外国人客は基本的にそういうものだと思って来ているし、英語版のインフォメーションキットの中に布団の敷き方、浴衣の着方を図解で入れている。

夕食例

外国人向けに用意した食べ方を説明するシート[部分]

 「外国人客に対して特別なことをしてはいけない」との思いが一の湯では強い。日本人に対するのと同じことが外国人に提供されるのが当たり前であり、わざわざここまで来る外国人はそれを喜んでいる。外国人には洋食を出す宿も多いが、一の湯ではあえて和食を勧めている。これは、日本旅館としての一の湯らしい食事を提供することからぶれないためである。

顧客満足も「生産性」から

 始めから外国人客を意識して改善したわけではない。まずは日本人が喜んで認めてくれて、とても人気になり、そこに気づいた海外の方が少しずつ来るようになった。旅館として良い商品、日本人が喜ぶものを提供できないと絶対に駄目だという思いがここでは貫かれている。現代風にアレンジした忍者やサムライで売り出そうとしたところもよそでは一時多かったが、日本人はそういうのを喜ばない。そういう安易な雰囲気に迎合しない一の湯では、地味ではあるが真の日本体験を来館者は楽しむのである。

芸者と一緒にお座敷遊びを楽しむ外国人客。地域の観光資源とのセットプランを、箱根では一の湯が初めて商品化した。芸者と連携したプランでは、お得な料金で多くの外国人に日本文化を楽しんでもらっている。最初は舞台上で歌と踊りで見せる、だんだん客との距離を縮めていって、最後はみんなで写真を撮ってお開きとする――構成プログラムは距離感を大切にしていて、少しずつ客に近づいていくという演出をしている。そのほか、みかん狩りやワカサギ釣り、寄木細工づくり、美術館見学などが設定され、地域の活性化に貢献してきた

 お客さんは何を目当てに来ているのか……別に布団を敷いてほしくて来ているわけではないし、お茶を入れてほしい、夕食時に女将に挨拶に来てほしいわけではない。「何を求めているのかというと、温泉にいくらでも入れるということであり、お茶を気兼ねなく飲めることではないのかと気づきました。結果として海外の方の感覚に合っていたようです。取り組んできたことは、一の湯にとっては「生産性」であったが、客はそれを「利便性」として受け取っていたと思います。顧客満足向上も生産性を上げた結果なのです。」と矢後さん。

押しつけでないおもてなし

 何が周りにあるのかよく分からないまま一の湯に来訪する外国人が結構多い。相手の立場に立って、資料を見せながら地元のストーリーを説明したり、好みに応じた食事処(しょくじどころ)を案内したり、何を見たいのかによって日程を一緒に考えてあげたりている。付近の主要な観光地への交通機関などの情報をまとめた英語版の説明用のシートも独自に作成し、地域の他の宿泊施設にも惜し気もなく配って、自館の客以外にも利用してもらっている。​

外国人に鶴の折り紙を手ほどきするスタッフ

 “これがおもてなしだ”というのを宿側から発信してしまうと、それはおもてなしでなくなってしまう。客が求めたときに対応できるためには、無駄なことをしていない状態をつくる。客が必要としていることを理解してやってあげると同時に、必要でないことを客に明確にしておくことによって、自然とおもてなしができる態勢になっている。Noという返事はせず、必ず代替案を提示することに努めている。

シャワーが無く、上がり湯を桶でかける大浴場

大正時代からそのまま使われている 大理石造りの無料の家族風呂

 全ての行動の裏面にあるのが「生産性」なのである。生産性というのは一見冷たい“切り捨て”的なイメージを多くの方が抱くのであろうが、実は逆なのである。生産性が保たれているからこそ、おもてなしができるのである。

老舗のDNAが引き継がれていく

 老舗は暖簾を守り、長く同じ在り方を続けることをアイデンティティーにしているというイメージがあるが、一の湯は388年間常に何かを仕掛けてきた。そのノウハウがギュッと濃縮された老舗のDNAがあるから400年近くも続けられてきた。同じことを続けてきたのでは決してなかった。老舗というのは守ることではではなく、戦ってきた結果なのである。
 一の湯本館には、古いものと新しいものがハイブリッドに機能している。明治、大正、昭和の各時代のはやりの意匠の面白みがいろいろな所に散りばめられ、明治に造られたままの客室も現役で使われている。その一方で、旅館運営を下支えするシステムには、Webシステムや予約センター、最新のAI(人工知能)を搭載したFAQ(良くある質問と回答)システムなどがある。有形文化財に登録されている建物は古いものだけれど、その中を支えているものは最新のものであり、そうやってこそ老舗のDNAが引き継がれているのである。

 外国人に喜ばれるようになったのは、やるべきことをぶれずに1つ1つ実行してきたことの蓄積にある。老舗であることや立地の強みもあるが、特別なことはやっていないし、多額の投資を行ってきたわけでもない。「生産性向上」という行動指針のもとに、従業員が同じ思いを持ち一丸となって取り組んでいる現場がここにある。

取材協力・画像提供 塔ノ沢一の湯本館
https://www.ichinoyu.co.jp/honkan/

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