『高原の楽しみ方』(志賀高原ユネスコエコパーク)

志賀高原といえば、1998 年の長野冬季オリンピックでアルペン競技の会場となったスキーのメッカである。また近年では雪の中で温泉に入るニホンザル「スノーモンキー」が世界中からの観光客の人気となっている。そのような訳で冬の観光地のイメージが強いが、実は志賀高原は1980年にユネスコから「生物圏保存地域(BR)」(日本での通称「ユネスコエコパーク」)として認定されている。核心地域と呼ばれる保存地域には、手付かずの原生林や湖沼・湿地帯などがあり、夏や秋にはトレッキングを楽しむ人たちで賑わっている。志賀高原の楽しみ方を追求しに行ってきた。

ユネスコエコパークとは

 志賀高原ユネスコエコパークについて書く前に、ユネスコエコパークとは何かを簡単に紹介する。ユネスコエコパークは、1976年にユネスコが開始した事業で、生態系の保全と持続可能な利活用の調和(自然と人間社会の共生)を目的としている。正式な名称は「生物圏保存地域」だが、日本国内では通称「ユネスコエコパーク」と呼ばれている。日本では現在志賀高原や屋久島など7カ所が認定されており、世界的に見れば米国のイエローストーン、オーストラリアのウルル(エアーズロック)、エクアドルのガラパゴス諸島など600地域以上が認定されている。「自然と人間社会の共生」を目的としているところが、自然保護に重点を置く「ユネスコ世界自然遺産」との大きな違いである。そのため地域を3つに分けて登録し、「核心地域」では生物多様性の厳格な保護を行い、「緩衝地域」では学術的な研究や教育を中心とし、「移行地域」は居住区域として地域社会の発展が図られている。

池めぐりトレッキング

志賀山と鉢山

 8月21日志賀高原のユネスコエコパークを体感するため、ガイド組合の自然解説員湯本勝子さんにガイドをしていただきながら、約10 kmのトレッキングコース「池めぐりコース」を歩いてみた。まずほたる温泉前のサマーリフトでスタート地点の前山山頂に向かった。スタート地点で、これから目指すエコパーク核心地域の方向を確認する。向かって左が志賀山、右に鉢山が青空に映えている。前山湿原ではイワショウブが白い花を涼しげに風に揺らせていた。最初の池である渋池には、赤い口を開いた食虫植物モウセンゴケが、薄赤色のカーペットを敷いたように浮島の上に広がっている。水面には針葉樹林の緑と青空に白い雲が映し出され、まるで指輪物語のホビットの村に来たような景色だ。

イワショウブ

モウセンゴケ

渋池

 ガイドの湯本さんが志賀高原ユネスコエコパークを理解する上で必要な基礎知識を教えてくれた。まず地層については、火山の噴火によってできたこの地域の土は、溶岩を中心とする赤土の基礎部分と、腐植土と岩の風化物が混ざった黒土部分、そして表面は腐葉土が積もった黒土である。またこの地域の原生林を形成する代表的な木は、クロベ、シラビソ、オオシラビソ、トウヒ、コメツガの5種類だという。トレッキングを始めた午前中は、1日の内でこれらの木々が殺菌性のある揮発性物質フィトンチッドを最も多く発散させているので、森林浴には最適だ、とコメツガの葉の匂いを嗅ぎながら湯本さんが教えてくれた。

3層の地層

コメツガの葉

 志賀高原ユネスコエコパークの核心地域には、生物多様性が保護されていることにより、独特の植生が観察できる。動植物に詳しくない記者が1人で歩くだけでは気が付かない小さな森の住人たちを、ガイドさんの案内によって1つ1つ確認して歩いた。ギンリョウソウ(銀竜草)は樹木が作り出した有機物をベニタケ属のキノコを経由して取り入れている。色素がなく透けた白色をしている。その他この時期のエコパークでは、紫色が凛々しいオヤマリンドウ(御山竜胆)、赤い実が可愛らしいゴゼンタチバナ(御前橘)などの花や実が見る者の目を楽しませてくれる。

ギンリョウソウ

オヤマリンドウ

ゴゼンタチバナ

四十八池湿原

 四十八池湿原は志賀山と鉢山の間、標高1,880 mに位置し、面積3.7ヘクタールの湿地帯に60余りの池や沼が点在している。木道沿いに植物を観察し、池の中にモリアオガエルやクロサンショウウオを探しながら進む。

 四十八池湿原から原生林を抜けて山道を下って行くと、眼下にコバルトブルーの湖面が見えてくる。核心地域最大の湖である大沼池だ。大沼池は志賀高原ユネスコエコパーク内の池の中で最も酸性度が高く、魚類はほとんど生息していないといわれている。

大沼池

 緊急時の避難所でもあるレストハウスでランチ休憩を取った。名物のネマガリダケの味噌汁を頼んで持参した弁当と一緒に食べた。

根曲り竹とサバ缶の味噌汁

 北信地方で「根曲り竹」と呼ばれるチシマザサの新芽は、柔らかくえぐ味がなくて美味しい。6月中旬から7月上旬にはクマも人間もサルも奪い合うように採って食べるという。缶詰になった味噌汁「サバタケ」が、郷土料理として地元の道の駅で販売されているそうだ。

 約10 kmトレッキングの最後に我々を迎えてくれたのは、黒い輪郭にあさぎ色(青緑色)の文様が美しいアサギマダラ蝶だった。日本から台湾など南の国へ2,000 kmも旅することがあると言われているこの蝶の雄は、ヨツバヒヨドリ(四葉鵯)の花の蜜からフェロモンを吸収するとのこと。長距離を旅するとは思えないフワーリ、フワリとして優雅な飛び方が特徴的だ。

アサギマダラ

原生林

 この地域では昭和30年代以降樹木の伐採をしていない。木々は寿命を過ぎると徐々に朽ちていき、樹皮がはがれ、木の内部が軟化して自然に倒木となる。その倒木の上に新しい木が芽を出し、次の世代として成長する。これを倒木更新といい、エコパークの森の中では、そうした世代交代が自然に続いており、人工の森では見ることのない独特の姿をしている。

樹皮がはがれた木

倒木の上の新しい芽

 池めぐりトレッキングコースでも、原生林で多くの特徴的な木を見ることができたが、翌日に今度は信州大学自然教育園近くのコースを歩いてみた。再度ガイドの湯本さんに案内していただいた。

 三角池(みすまいけ)から信州大学自然教育園のある長池までの約1.5 kmの短いコースだが、途中多くの倒木更新の例など見どころが満載だった。その1つは地元の子供たちが「ゾウさんの木」と呼ぶというコメツガの木で、岩に邪魔され根上がり状態で成長し、更に雪の重さで変形して独特の姿になったものだ。根上がりとは、倒木の上や岩の上に成長した木が、根を地表から上にタコの足のように張った状態をいい、志賀高原の原生林では頻繁に目にする光景だ。

ゾウさんの木

 例えば写真Aは、この地域の原生林において代表的な木であるクロベとコメツガが、岩の上に根上がりして寄り添うように育ったものだ。
 また写真Bは、クロヅルがダケカンバの木を締め付けるようにして上に伸びている。

 原生林の木の根元、倒木の影や岩の隙間(風穴)など、あまり日光が当たらないところにヒカリゴケが発生する。発光するのではなく、レンズ状の細胞が僅かな光を反射することによる反射光で、細胞内の葉緑体の影響で反射光がエメラルド色になる。

ヒカリゴケ

 原生林独特の景観を楽しみ、午前中に樹木から発散されるフィトンチッドをしっかり吸い込んで、本日のトレッキングのゴールである長池に到着した。木立が開け、池と対岸の山が目の前に広がったとき、ガイドの湯本さんが「ここは絶好のヤッホーポイント(こだまポイント)です。」と宣言した。通りかかったランニング中の学生さんも巻き込んで、対岸の山に向かって大きな声で短く「ヤッホ」と叫ぶと、瞬時に張りがあって気持ちの良いこだまが帰ってきた。

長池

ヤッホーポイント

 普段あまり歩くこともない記者が、志賀高原ユネスコエコパークの核心地域周辺を1日半かけてトレッキング体験した。特に初日の10 kmはかなりきつかった。トレッキング用の装備も持っていなかったが、天候に恵まれたため雨や寒さの心配は杞憂に終わった。しかし、トレッキングシューズだけは用意して正解だった。自然環境を壊さないために、人間の手をできるだけ加えていないので、木道以外の道は泥と大小の石でとても歩き難く、けものみち、あるいは水がない川の底を歩いているようだった。
 気持ちの良い疲れを感じながら、長池で湯本さんと志賀高原ユネスコエコパークに別れを告げた。湖畔に咲く小鬼ユリが見送るようにたたずんでいた。

自然の中でゆったりと

 この夏、志賀高原で立教大学観光学部の学生が地域応援プロジェクトを展開していると聞いて、志賀高原ゲートウェイステーションに夏季限定で開設したカフェを訪問した。
 観光学部庄司貴行教授の指導のもと、10名ほどの学生が「雄大な自然の中で読書を楽しんでもらう」というコンセプトのカフェ“Reader’s Lounge”を立ち上げたもので、通信会社のタブレット端末、印刷会社の電子コンテンツ、アウトドア専門店のアウトドアグッズなどをツールとして、ビールやワイン、リンゴジュースやジェラートなど地元の人気産品を提供していた。

立教大学観光学部の学生たち

 トレッキングで疲れた体をデッキチェアーに預けながら、コーヒーと一緒にガイドの湯本さんお勧めのジェラートをオーダーした。渋温泉で人気だという若葉屋のジェラートは、奥志賀高原牛乳を使っている。夏季限定の白桃ジェラートの上品な甘さが疲れを癒してくれた。
 観光学科3年の増田港太さんに話を聞いてみた。トレッキングで疲れた後、地元の食を楽しみながらゆっくり読書でもしてもらいたいと思い、今回の企画を考えたという。確かにこの日の私にはピッタリな場所であった。またこの日は晴天でトレッキング日和だったが、山の天気は変わりやすいので、悪天候のときアウトドアのアクティビティーができない場合にもこのような場所はありがたいことだろう。
 企業とのコラボレーションで用意したタブレット端末と電子書籍については、電子書籍を読むだけでなく、地域の観光情報発信にも利用することを考案していた。「でもトレッキングにいらしたシニアの方々は、タブレットや電子書籍には馴染めず、主に若い人たちが利用してくれました」と増田さんは思惑が外れたことも正直に話してくれた。

風景画を描く

 ふと気が付くと窓際で外の景色を見ながら何か描いている人が目に入った。聞いてみると、美大で日本画を勉強している伊藤明日美さんだった。近くの宿泊施設で2週間のアルバイトをしていて、この日初めてReader’s Loungeに来たという。「窓からの景色があまりに綺麗だったので…」と描きかけの絵を見せてくれた。

 また、ほとんど毎日ここに来て本を読んでいるという若者がこの日も熱心に本を読んでいた。声を掛けてみると、大学で経営学を勉強している長谷部佑亮さんで、やはり2週間のリゾートバイトをしているという。志賀高原に来てから10日ほどで、ゲンジボタルやキツネ、猿などを目撃し、満天の星空が美しくてまるで「もののけ姫」の世界にいるようだと感想を語ってくれた。今読んでいる本はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だそうだ。

世界名作文学を読む

それぞれの楽しみ方

 志賀高原をどう楽しむかは人それぞれで良いと思う。元気な人はトレッキングで日本に7カ所しかないユネスコエコパークの自然を満喫し、フィトンチッドをたっぷり吸収して更にパワーアップすることができる。食に興味がある人は、地元の人がクマと競ってまで毎年楽しみに食べている根曲り竹や、ジェラート、フルーツ、地酒、地ビールなどを楽しむことができる。ゆったり静かな生活に憧れる人は、温泉に浸かった後で、満天の星空が見える窓辺で世界名作文学を読めば充実する。人それぞれに満足を得ることができるだろう。
 取材の予定にはなかったが、あまりに良い天気なので、志賀高原の最高峰である横手山の山頂にサマーリフトで登ってみた。標高2,307 mの頂上からは志賀高原の全てが眺められると同時に、雲がなければ遠く北アルプスや富士山まで見えることがあるという。トレッキングなどで自然の中に入っていくことにも充実感はあるが、横手山の山頂から世界を俯瞰するのも清々しい気分が味わえる。
 人それぞれのスタイルで志賀高原ユネスコエコパークを楽しんでいただきたい。

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