疫病退散! 古刹深大寺と深大寺そば

疫病退散! 古刹深大寺と深大寺そば

印刷用PDF 

山門
本堂
参道

 東京が江戸でも武蔵野国でもなかった古代から、豊かな湧き水を慈しむ人々によって大切な信仰の場に開創した古刹深大寺。東京の寺院で唯一国宝仏を安置し、多様な特色を持った、緑豊かな調布市の深大寺と門前のそば文化があることをご存じだろうか。深大寺の元三大師(がんざんだいし)は疫病退散を担い、そばは免疫力を高める優れた栄養素を持つ。
 今まさにこの不安な世の中にも人々の願いを受け止める役割を果たしている深大寺と門前のそばをご紹介したい。

 深大寺では広報部神原玄裕(かみはらげんゆう)様(右)のご尽力で法務部林田堯瞬(はやしだぎょうしゅん)執事(左)にお話をうかがう機会を得、また、深大寺そば組合「松葉茶屋」の石川和之(いしかわかずゆき)会長にご協力いただいた。
 深大寺は数度の火災により失われた寺宝、建物もあるものの、現在も台地と、崖下の湧水地にかけて歴史を経て建てられたお堂、仏像が多数点在する。お堂がそれぞれに独特の物語を持っていることも興味深く、緑を愛でつつ、お堂を一回りすると、ちょうどお蕎麦(そば)にたどり着くという楽しみがある。もちろんその逆も。時代を追って訪ねてみる。

山門脇湧水
本堂と大師堂をつなぐ渡り廊下
本堂

古代~天平期 水神さまと縁結び 「深沙大王堂」

深沙大王堂
大王堂裏もみじのトンネル
崖をつなぐ階段

 新宿から15km。武蔵野台地の南西部に位置する深大寺は海抜56m。一方調布市内の低い地点は多摩川沿いの海抜24m。この高低差32mをつなぐ斜面が「国分寺崖線(がいせん)」と呼ばれ崖下から地下水が湧き出し、縄文時代以前から人々が集まる土地であった。遺跡も多数存在し、古墳もあり古代より人々が文化を発信する場所であったと思われる。
 そのような背景から水神「深沙大王(じんしゃだいおう)」の伝説が生まれた。深大寺を開いた満功(まんくう)上人の父、福満が郷長右近(さとのおさうこん)の娘と恋に落ちたが、右近夫妻は娘を湖中の島に隠してしまう。

開山堂 霊亀の彫刻

 この時福満は砂漠で水神深沙大王に救われた玄奘三蔵の故事を思い、祈願。すると霊亀(れいき)が現れ、島にわたることができた。右近夫妻も仲を許し、満功上人が生まれた。長じて満功上人は父福満の宿願を果たすため出家し、8世紀当時、唐に渡り薬師寺・興福寺に代表される法相宗を学び、天平5年(733年)帰郷後この地に「深沙大王」を祀った。その「深」と「大」をとり深大寺の開創となった。人々の水に対する感謝の気持ちが生んだ水神信仰。本堂から下った場所の湧水地近くにある「深沙大王堂」は1662年頃に建てられた記録があり調布市最古の建物に指定されている。ここには縁結びを願う絵馬が多数かけられ、400年近くにわたり人々の願いに寄り添っている。

白鳳期 深大寺が守った国宝、白鳳仏「釈迦堂」

中央 国宝釈迦如来像 左 法隆寺 夢違観音お身代わり 右 新薬師寺 香薬師像お身代わり(写真提供 深大寺)
国宝釈迦如来像(写真提供 深大寺)

 慈悲に満ちた穏やかなお顔、たおやかなお姿で腰を掛けられ飛鳥時代後半に作られたお釈迦様は733年の開創期に奈良から来られたと思われる。2017年国宝指定。東日本最古。東京に三体ある国宝仏の中で唯一寺院にあるものである(他二体は東京国立博物館と大倉集古館)。新薬師寺の香薬師像(こうやくしぞう)、法隆寺の夢違観音像(ゆめちがいかんのんぞう)とお姿や鋳造技術が類似しているため畿内の同一工房で制作されたものと考えられる。しかし、平坦な歴史ではなかった。開創時はご本尊だったが、1865年の火災以来本堂の再建がままならず、大師堂の仏像の台座下の場所に仮置された。

 そのまま年月が経ち、1909年東京帝国大学助手、柴田常恵(しばたじょうえ)氏によって再発見され旧国宝に指定された。火災の際には、池に沈められたことも。お釈迦さまも水神に救われていた。螺髪(らほつ)はなく、裾を広げ台座に椅座されるお姿は白鳳の形式。表面に金が塗られていたようだが、通常その際に使う水銀が発見されず謎が残る。1,300年前畿内、おそらく奈良時代、お隣に夢違観音がいたかもしれない工房から、はるばるどんな旅路を巡られたのか。かすかな微笑みをたたえられているお釈迦様のお姿には今の困難な時代に生きる我々も救われるような気がした。現在細心の管理のもと環境を整えた釈迦堂で出会うことができる。

平安期 天台の教え  「山門」「本堂」「開山堂」

山門
山門(境内から振り返る)
本堂

 参道から階段を上り山門をくぐり振り向くと、茅葺屋根に苔むした山門が美しい。深大寺は1865年の大火により建物の大半を失ったが山門は災禍を逃れ1695年の建立のままの姿である。本堂には恵心僧都(えしんそうず)の作と伝わる阿弥陀如来像が安置される。冠(かんむり)を戴かれたお姿が外からも垣間見られる。深大寺は天台宗に宗派を改めた。淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅願(天皇による祈願)を下し、鎮護国家の道場(国を護る願いのため天台宗の祈祷を行う場所)になる。その後、860年頃、清和天皇の勅命(天皇の命令)を受け武蔵の国司の反乱の鎮静を祈願するため、密教の祈願に優れている比叡山の恵亮和尚(えりょうかしょう)が東国に下り深大寺を道場に定めた。このことから、深大寺は中央政府から信頼篤い傑出した寺院だったことがうかがえる。

開山堂
開山堂正面

 本堂から趣ある階段を上ると、1983年に深大寺開創1,250年を記念して建立した山上の開山堂がある。ここには深大寺開基満功上人と恵亮和尚の両祖師像が祀られている。「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」という天台宗の開祖、伝教大師最澄の教え、暗い一隅を照らす一人一人の灯りを大切に慈しむ、はこの現代においても救いの言葉となり人々を見守っている。

鎌倉~江戸期 疫病退散の元三大師「大師堂」

元三大師僧形座像(写真 深大寺提供)
大師堂

 本堂の左少し階段を上った林の中に見事な意匠が見られる大師堂がある。ここには僧形木造坐像で日本最大2m近くの元三大師の像が秘仏として安置されている。比叡山の中興の祖、慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正は正月三日の入滅により元三大師と呼ばれる。なぜこの大きさに? 時の鎌倉幕府が元寇の難に打ち勝つため、深大寺に願い、人並外れた霊力を持つ元三大師の力を、迫力ある大きさで写実的な鎌倉様式にあらわした。開帳は25年に一度。次回は2034年の予定である。

角大師お札(大きなお大師は室外、三十三のお大師は室内に貼る)

 しかし、2021年、東京国立博物館に出陳されることになった。過去にも上野の寛永寺に訪問の際、総門を大きな御像を通す苦労が記録されている。
 そして江戸時代にはいよいよ人々の信仰の中心になる。元三大師は疫病が流行すると自ら鬼の姿「角大師(つのだいし)」となり疫病を退散させる。江戸時代もたびたびの疫病に苦しんだ庶民の心のよりどころとなってきた。「門松に かくれ顔なり 角大師」という川柳もあるように「角大師」のお札は当時日本中の家々の入り口に貼られていた。現代も天台寺院ではこわい系からかわいい系まで異なるお姿のお札がいただける。深大寺では今も毎日護摩祈願を行い、人々の願いを届けている。
 今こそこの時代にも角大師に疫病退散の力を発揮していただくことを願う。

護摩供養(写真提供 深大寺)
願いを書く護摩
元祖 元三大師みくじ
だるまがついてくる「だるまみくじ」(まず左目に目を入れる)

 また、元三大師は「おみくじの祖」でもある。深大寺では「だるまみくじ」を引くことができる。おみくじ元来の姿であるため「凶」も多い。

 毎年3月3、4日には「だるま市」が催される。各地からだるまの出店がある。特にこの地で江戸中期から明治にかけ養蚕が行われていたためお蚕に似ている「多摩だるま」が見られる。それぞれお顔が違うので好みのお姿を見つけるのも楽しい。

境内マップ
だるま市

深大寺そば

今回お話をうかがった「松葉茶屋」(店内には高さ30m、周囲3.6mを超えるコナラの古木がある)
深大寺そば組合会長 石川和之様
二八そば

 深大寺周辺の土地は黒ぼく土という土壌で米作よりそば栽培に適し、湧水も豊かで深大寺そばは江戸時代には将軍家、寛永寺にも献上されていた。「献上そば」と言われ、蜀山人(しょくさんじん)をはじめ多くの俳人・歌人も訪問、歌碑が残されている。戦後植物園が開園されたのを機に多くのそば店が軒を連ねる独特の街並みが出来上がった。深大寺そば組合も組織され、現在加入店は19店(うち一店は土産物店)。組合では「小学生そば教育」を一年を通じて作付けから刈り取り、そば打ちまでの体験を提供、和をテーマとした遊びなども企画する夕涼み会、そば巡りスタンプラリーなども楽しめる。

そば店が軒を連ね、味を競っている

 また、深大寺では毎年11月最終土曜日に蕎麦供養で献上そばの儀がとり行われ、「そば観音」が今でも深大寺そばを見守っている。組合長の石川さんはそばの栄養価も強調された。負けないカラダを作るため、ルチン、LPS(リボポリサッカライド)、タンパク質、食物繊維、各種ミネラルなどバランスよく含み免疫力アップが期待できる。日本人のソウルフード「今こそ蕎麦を!」である。各店が違った産地からのそば粉を厳選しており、風味の違う蕎麦を食べ比べることができるのも、深大寺そばの魅力である。

水車小屋
水車を回す逆川

 近隣には湧水を利用した水車小屋が復元され、実際に石臼、米つきが完備され、調布市が管理している。予約して一般も使用できる。石臼はそば粉に熱をもたさず風味を損ねない。

 現在のものは明治の頃、地域の人々が共同で製粉、精米に使用していた場所に1992年に再建され、民俗資料館も併設されている。

 深大寺周辺には、この地域を訪ね愛した歌人・作家の歌碑多数ある。句碑・歌碑を巡るコースも趣がある。都立神代植物公園、水生植物園はじめ、深大寺城跡と見どころも多数。緑豊かな別世界が広がっている。

 

「門前の蕎麦はうましと 誰もいう

  この環境の みほとけありがたや」

 

清水比庵(しみずひあん)

取材協力:
天台宗別格本山 深大寺  www.jindaiji.or.jp
特定非営利活動法人 調布市地域情報化コンソーシアム  https://chofu-clic.com/
深大寺そば組合 https://chofu.com/web/jindaiji_soba/

English Page →