琵琶湖疏水(びわこそすい)

明治2年(1869年)に都が京都から東京へ移り、平安京以来1000年以上にわたって日本の首都として栄えてきた京都の産業も急激に衰退、人口も激減した。そこで京都の繁栄を復活させるため行われたのが琵琶湖疏水事業だった。琵琶湖から京都へ水を引き込み、水運を発達させ、同時に水車による動力、かんがい、防火などに利用するというこの事業は、途中日本初の水力発電実用化につながり、その後人口増加、産業の振興に欠かせない水道事業へと発展した。また古都の環境を守ることに配慮した計画により、疏水によってもたらされた水辺の景観は京都の魅力を更に高めることとなった。今回はその琵琶湖疏水の歴史を振り返りながら、疏水を巡る散策路をご紹介する。

琵琶湖疏水の歴史

 明治14年2月に京都府知事に任命された北垣国道(きたがきくにみち)は、京都の産業振興のため琵琶湖から京都に水を引き込む琵琶湖疏水事業を計画した。当時日本の重大工事は設計・監督を外国人技師に委ねていたが、北垣が白羽の矢を立てたのは工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの田邉朔郎(たなべさくろう)だった。琵琶湖疏水事業は、日本人の手により、大半の資材も国産でまかなった我が国初の大土木工事となった。
 明治18年6月に着工し23年3月に鴨川合流点まで完成した第1疏水は、水運、動力(水車)、かんがい、防火などに利用する予定であったが、途中から米国で実用化された水力発電にも使われることになり、これが明治28年には日本初の路面電車開通につながった。
 明治41年10月に着工し45年3月に完成した第2疏水は、京都の近代化に伴い質・量ともに問題となった飲料水の確保と発電力の増大のために造られ、日本初の急速ろ過方式を採用した蹴上浄水場が明治45年に給水を開始した。

蹴上船溜り・インクラインから水路閣へ

 蹴上船溜りは琵琶湖第1、第2疏水が合流する場所で、水運に利用されていたころは琵琶湖から第1疏水を通って来た船が荷を降ろすところであり、南禅寺船溜りとの間のインクライン(傾斜鉄道)の昇降場所ともなっていた。

 ここから疏水の水は水道水になるために蹴上浄水場へ、また発電のために蹴上発電所へ、更に分流となって南禅寺の水路閣を通り北上して哲学の道へ流れて行く

蹴上船溜

水の一部は水圧鉄管を通り発電所へ

 インクラインは高低差36 mの蹴上船溜りと南禅寺船溜りを結ぶ船の運搬用ケーブルカーで、水運の衰退と共に昭和23年(1948年)には運転が休止されたが、現在も形態保存されている。両脇に桜並木があり、花見の名所にもなっている。

船を載せたインクラインの台車

南禅寺船溜りへ下るレール

 蹴上船溜りから疏水分線に沿って歩いて行くと南禅寺境内の水路閣の上に出る。水路閣は南禅寺の歴史的な景観を壊さないために造られたといわれているレンガ造りの疏水路だが、完璧に異国風の建築物なので、当時の人々は相当な驚きを持って見上げたことだろう。とはいえ今では一部苔むしてとても風格があり、写生や記念撮影をする人たちで賑わっている。

和服での記念撮影にも最適

独特の景観美を醸し出す水路閣

庭園に疏水の水を活かす

 南禅寺天授庵(てんじゅあん)は南禅寺の開山一世大明国師無関普門禅師(かいざんいっせいだいみょうこくしむかんふもんぜんし)を祀る南禅寺山内でも由緒ある寺院で、とりわけ2つの異なった趣の庭園が美しい。本堂前の庭園は平坦でシンプルな枯山水、書院南の庭は木々がうっそうと茂る池泉回遊式庭園で疏水の水を引き込んでいる。

本堂前の枯山水

疏水を利用した書院南庭の池

 天授庵が疏水を利用した寺院の例である一方、南禅寺船溜り近くにある「無鄰庵(むりんあん)」は、明治初期に内閣総理大臣を2度務めた政治家山形有朋の別邸で、庭は疏水を取り入れているところは天授庵と同様だが、視界を遮る木々はなく、東山を借景とした、明るく開放的な池泉回遊式庭園である。

東山の借景が開放的な無鄰庵庭園

 

  このように疏水の水の一部は寺社や邸宅の庭園に利用され、潤いのある空間を演出している。

鴨東(おうとう)運河から白川分流へ

 鴨東運河は南禅寺船溜りで琵琶湖疏水が白川と合流したもので、動物園、京都市美術館、平安神宮大鳥居、みやこめっせなどに沿って西に流れる。運河沿いに桜並木の遊歩道をそぞろ歩くと気持ちがいい。桜の季節であれば船上から両岸の桜を愛でることができる「十石船」で運河廻りも更に良い。(十石船は3月末からゴールデンウィークの間のみ運航)

十石船からの眺め

 鴨東運河の神宮道を過ぎたあたりから白川が分かれている。柳並木と、目線から近いところを流れる白川が歩き疲れた旅人を癒してくれる。白川はどこを見ても流れが穏やかで浅く水もきれいなためか、川沿いにほとんどと言ってよいほど柵やガードレールがない。それが人と川との親密な関係を作り上げているように思える。

白川分流の柳並木

白川ならではの石橋

白川の流れは東山三条の住宅街を南下し、知恩院前を西へと向かい、祇園の花街に風情を与えてから鴨川へ流れ込む。

季節の花が河岸を彩る

 明治時代に完成した琵琶湖疏水は、その後水運の衰退等により利用用途が時代とともに変化してきたが、現在でも京都市の水道水のほぼ100%が疏水の水を使って給水されており、疏水沿いの水辺の景観は、市民や観光客に憩いの場を提供し続けている。

アオサギが人家の近くにまで飛来する水辺の景観

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